光明寺について
天文六年(1537年)遠賀郡陣の原の人宝誉貫碩和尚(姓を白水といい本寺極楽寺の第七世)によって開基されました。
その後、兵火に焼かれて寺記、什物等一切を失いましたが 過去帳は慶長十八年(1613年)より見られます。
藩主黒田氏との御縁は、黒田氏が播磨国(兵庫県)在居していた当初に遡るといい、今も黒田如水の義姉の古墓が寺地にあり、延宝八年(1680年)には尊霊菩提料として櫛橋家より山林5000坪の寄進を受けています。
本尊阿弥陀如来は恵心僧都の作といわれ、境内にある観音像は杉氏が龍ヶ岳城築城のころ建立したのを、のちに移したものと伝えています。
寺院画像1
宗旨
寺院画像2
名称‐浄土宗
-宗祖-法然上人(源空)(1133~1212年)
-開宗-今から830年ほど前承安五年(1175年)
-本尊-阿弥陀仏(阿弥陀仏如来)
-教え-阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、「南無阿弥陀仏」とみ名を称えて、人格を高め、社会のためにつくし、明るい安らかな毎日を送り、お浄土に生まれることを願う信仰です。
-お経-お釈迦さまがお説きになった、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三部経をよりどころとします。
由緒
當山は浄土宗塔峯山妙寿院光明寺と称す。
開山は天文六年(1537年)。
今から480年ほど前の開基にして第一世開山上人は等蓮社宝誉貫碩和尚と号す。
第三世呑龍大和尚は播磨の国志方の城主櫛橋豊後守の家臣なり。
當寺に住し三十余年間宗祖法然上人の念仏間帰依し、人間は生かされていることを発見するのか、浄土の思想であると布教活動に専念した。
第八世龍残和尚の代鞍手郡龍徳村東峯山隣地山林五千坪、當時黒田藩主如水公の姉、
遍照院殿量誉妙寿尼公大姉、慶長十八年(1613年)没菩提の為當寺に御寄付相成と記録す。
寺院画像3
妙寿尼とは、播磨の国上月(兵庫県佐用郡上月町)の城主だった上月八郎定之(景定・景高)の奥室です。
奥室は播磨国志方(兵庫県印南郡志方町)の城主、櫛橋豊後守伊定の長女で、黒田如水(官兵衛または孝高ともいう)の奥室(光姫)の姉でもあります。
つまり、筑前福岡藩主の黒田長政にとって伯母に当たることになります。 この奥室は夫君の定之が死ぬと仏門に入って尼になりました。そのころ、黒田長政は豊臣秀吉の九州遠征の功により、豊前十二万石の城主として天正十六年、伯母の妙寿尼を中津城に迎えました。
それから十年後の慶長五年、関ヶ原合戦の功によって、長政は筑前五十二万石の福岡藩主になり、妙寿尼も福岡城に移りましたが、慶長十八年十一月に亡くなりました。長政が亡くなる二年前に当たります。
光明寺 本尊について
本尊阿弥陀如来像(木彫)

像高八十センチ、膝幅六十八センチ、肩幅四十センチの座像で、恵心僧都の作という伝承がありますが、鎌倉期と思われる厳しく引締った作風です。